無想庵コラムCOLUMN

たてる

たてる

 執心出精と云う四文字が今日庵許状の書きだしになっている。

「執心」とは何だろう、「出精」とはどう云う事だろう。我が事我が身をふり返って顔あからむ心地である。しかし、何はさておいて茶の湯は茶の湯である。茶の湯は、ともあれ「のむ」ものである。喫茶か啜茶かないし飲むか呑むのか。漢字に煩わされないでおいて点てて嬉しく「のむ」のが何より佳い。それが証拠に、一会の最高潮に達した時「お服加減は?」と客にたずねる。

 「お服加減は?」とは、意味深い問いであり、優しい問いである。

 ゴッホの「ひまわり」が何十億円かで日本人の手に入った。ものの例えではあるが、もし、こんな高価な絵が茶室に飾られていたとして、一碗の茶がまずければ、おいしく点てられていなければ、一会の茶の湯は崩壊する。それこそが茶の湯の根本の約束であり鉄則である。ぜひとも、そうあらねばならぬものである。

 「執心」も「出精」も、つまるところは一碗の茶の味に誠心誠意を籠めることで、花も香も、炭も灰も、釜も茶碗も、軸も他の荘りも、主も客も、佳い茶の味に結ばれてこそ生き生きと引き立つのではないか。茶に招かれて、茶だけがまずくて、他は満点と云うことは・・・・・、有りそうで本当はあり得ない。一時は道具にも人にも茶席にも幻或されもするけれど、それはすぐ冷めて、やはりいただいたお茶がおいしかったかどうかを、つくづくと思うものである。

 「お服加減は?」

 そう客に向って問うまえに、いつもいつも、茶の湯にかかわる者ならばまず己に問うてみるべきである。そこに己が誠実の一切をと常に「執心」し、「出精」して然るべきなのである。守るべきが本丸だと云うならば、心のこもった旨い茶こそ茶の湯の本丸。巨億の道具もたかが茶道具、されど茶道具。生かすも殺すも、どう茶を「たてる」かにある。「服加減」にある。

 茶は「点てる」と書くが、もともとは「立てる」ではなかろうか。「引き立てる」「押し立てる」「身を立てる」「男を立てる」などと云う。大きく豊かに、はれやかに、立つべきを立てて揺ぎなく美しいさま。「立てる」とはたぶん、そう云う事を云うのではないか。一会の茶の湯の、本来立てるべき「もと」はと云えば「茶」である。茶をしかと「たてる」ことである。精神的な「立てる」と云う意味あいを大事にして、「服加減」の佳い茶、旨い茶を「たてる」べく執心出精したいもの。

 利休百首にも「茶の湯とは只湯をわかし茶をたててのむばかりなる・・・・」と云っているではないですか。

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