無想庵コラムCOLUMN

一期一碗

一期一碗

正月は、昔から何故か好きだった。誕生日で年令を加算するのが一般的な今は、相当御年配の方でも、正月を敬遠する人は少なくなったのではなかろうか。

尤も年賀状書きからお節料理まで万端女房殿まかせで云っているのだから一部の女性からは大いにひんしゅくを買うかもしれない。

私の場合は、戸籍が正しいとすれば(両親共いなくなった今となっては確かめる事も出来ないが)生まれて六十一日目に最初の正月を迎えていた事になる。この平成X年の元旦で四十六回目。尤も正月を意識する様になってからだと、もう少しすくなくなる。

何度迎えても、正月はいつも清々しい気持ちになる。又その様に迎えたい気持ちが、何やら厳粛に体の中に出来上がっている。その気分にうまく添わせる様に、丁寧に用意万端迎えた正月こそ、最高に心地よい。

 茶道ではよく「一期一会」と云う言葉を耳にする。近頃では、例えばコマーシャルなどにも出てきた事があった。そして相も変わらず、一生に一度限りの出会いだから・・・・だから大切にと云った風に読ませている。しかし、これでは充分ではない。もう少し重要な、大切なところを見落としている。

 「一期一会」とは、ちょうど正月を心して迎える様な意味あいをもっている。正月は、一生に一度どころか一年=三百六十五日たてば、イヤでもまためぐってくる。いわば際限のない繰返しの代名詞のようなものである。ところが先にも触れた様に、正月を、人はつとめて大切に清々しく、あたかも一期に一会かの如く充分に心の準備を整えて迎える。

 繰返しの、陳腐と退屈・・・。昼夜と言わず四季といわず、人事も自然も春夏秋冬絵の様に繰り返す。又繰り返すものと決めてかかっている。そして、その上に立って陳腐と退屈からのがれ出す工夫が、いろいろ試みられてきた。なかでも「一期一会」と云う思想は、そのもっともすぐれた工夫の一つであろう。

 際限のない繰返しの一つ一つを、あたかも一生に一度の機会かのように、心をこめて、迎えかつ送る。そう云う心の術として考え出された言葉がこの「一期一会」である。もし、文字どうり一生に一度かぎりの事ならば、物、人ならば、これに対して精一杯尊重し、誠意を尽すのは、ある意味で意外にやさしい。しかし、今日、明日、あさってへ拒む事をゆるされず、しかも繰返される事・物・人に対して、時には煩わしいほどの出合い、その繰返しの一回一回を、あたかも「一期一会」の覚悟も新たに、その都度新鮮な気持ちで、ちょうど正月を大切な気持ちで迎える様に、いつもいつも迎えられるかどうか。そこが「一期一会」の成るか成らぬかのわかれ道なのである。

 武野紹鴎は、早くから「一期一碗」と云い表わしていたと云う。さように一碗一碗を「一期の誠意をこめて、おいしいお茶を!」他になにも付け加えるものはない。「一期一会」をその『茶湯一会集』に説いた幕末の大老井伊直弼の言葉を今一度充二分に味わい度い。

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