無想庵コラムCOLUMN

作

 「お茶杓のお作は」

と聞くのは、茶室での一般的な挨拶である。茶杓を作った方(削った方)はどなたですか・・・・と云う質問である。

 だが、作った(削った)人と云う意味の「作」と云うよりも、茶の湯の場合は、もう少し別の例えば、作意の意味の「作」等を考え度い。もっと云うならば、「随処二主トナレバ、立処ミナ真ナリ」等と云うその「主トナレバ」の「ナレバ」が「作レバ」の訓みであると考えて「作」を問題にし度いと思うのである。創意工夫と云うものを、心入れや、思い入れのかたちで表現してゆくことに妙味も興味もある茶の湯では、ただ単に、茶杓を作った(削った)のは誰で、掛け物を書いたのは誰でと云うだけの「作」の意識では充分ではない。

 そもそも一般的に「作者」等と云う場合の「作」もけっして作った人の名前をあげて事足れりと思ってはなるまい。「作る」と云う一事に籠めて、全精神を集中させる、その微妙な違いによって生じる具体的な「もの」の在り様を面白いと感じて、そのうえでそれほど見事に「作った」人なりに関心が湧いて、

 「お作は?」

と聞かずにはいられないと云うのが本音であろう。

 人生の諸々を複雑は複雑なりに微妙は微妙なりに書き表してゆく小説等の場合、ことにこう云う意味の「作」が、作意や作法が特徴的にものを云う。だから「作家」なのであろう。

 だからと云って、例えば茶杓を削る(作る)ことぐらいにそんな「作」など・・・等と云っていては所詮、「随処に主」も「立処ミナ真」もありえない。いわば長編小説の一ツにも匹敵する人生や思策から、あたかも生まれ出た様にして一本の茶杓が作りだされているかも知れない、それを「作」の不思議とも面白さとも眺めながら、そのものへも、又そのものを作り出した人へも、敬意と興味とを持ちたいし、又持つべきであろうと思う。

 「作者」とは、もともとそう云う性質の敬意や興味を持たれてもいい人なのだ。

 一会の「茶の湯」がもっとも佳い意味の「お作」となる様に願って、そう思い入れてさらに佳い「茶」を作り度い。

コメントを残す

記事に関するご質問やご意見などありましたら下記のフォームよりお気軽に投稿ください。