無想庵コラムCOLUMN

扱う 

扱う 

 一見むだに見えたり思えたりする事に、実は意外な働きがあって感心して覚え、気がついてみれば、一入面白く有難い心地がする。

 茶の湯の作法のなかで、そんなことを最初に感じたのは、道具を「扱う」ことの効果であったろうと思う。

 うちではそう云うものは扱っておりません・・・と云う様な「扱い」ではない。かたく云えば操作する、操縦すると云う意味にちかいだろうか。要は、よりよくその道具を使うべく「手」のうちで、ないし手から手へ、持ち直したり、取り直したり、置き直したり、向け直したりするいわば手捌き・・・と云ったことになる。

 こう云うとかえって難しく聞こえるが、例えば釜に預けられてある柄杓を右手にとり、実際に湯を、あるいは水を汲むまでの所作を思い起こして頂き度い。左手での「扱い」を必要としない場合と、かならず左手で「扱う」場合とがある。湯を汲む場合はふつう下から右手一手で柄杓を端から長く美しくすくいとるが、水を汲む場合は右手で上からしっかりとって、それをからだの前で横にしながら左手で「扱い」右手にしっかり持ち直す、いわゆる「取り柄杓」の手順になる。

 この様に組み込まれた「扱う」と云う手の動きは、見ようによっては無駄な、実用の外側に付加され装飾された所作の様に受取られるが、実はそうではない。点前を実感をこめて覚えている人には難なくわかるはずだが、釜に預けてあるその柄杓で、すぐ釜の湯を汲む作業量、例えば柄杓の合が動く距離と、釜から移動して水指の水を汲み茶碗へ運ぶ作業量はよほどちがう。そのちがいを美的にも実用的にもはつきり使い分けるために、細くて長い竹の柄杓を一手で下からすくいあげてすぐ釜の中へ沈めるか、大きく上からとって「扱い」の手をはさんで右手の動きに的確さと美しさをあわせもたせつつ大きく水指へ移動させるかのちがい。

 柄杓を「構える」ときにも、同じように左からの「扱い」がある。水指の前から、棗と置きあわせてある茶碗を膝の前へ運んでくるときにも、同じ様に左手で「扱う」ことによって点前の見映えがゆったりとしかも美しくなる。このいわば「添え手」とも云える様な、もう一方の手からの何とも云えない「扱い」の妙味。これが、くどくなく易しく出来る人の点前は見た目に自然で、これを、これでもかと云うぐらいハデにやる人の点前は、ちょっと嫌味な所作にみえる。点前作法のリズム感とでも云いたい美しい流動感は、「扱う」手の効果に大きく左右されている事を、知らず知らず稽古のなかで気づいていたいものである。 

 「扱う」手は、例えば一会の茶の湯で云うなら半東なりお詰めの役どころに似ている。

 亭主や正客の仕事をよりみごとに引き立てるために、かげにまわって誠心誠意を尽す・・・そう云う「扱い」のうちに茶の湯の生きた心根の深さや優しさ、さらには面白さや楽しさもうかがわれるのである。

コメントを残す

記事に関するご質問やご意見などありましたら下記のフォームよりお気軽に投稿ください。