無想庵コラムCOLUMN

正客と詰

正客と詰

 「赤信号みんなで渡ればコワくない」と、物騒でかつウガったギャグがはやった。

たいていこのテの物言いは一過性に忘れられていくものだが、これなど、新しい川柳としてあるいは永く記憶されるのかも知れない。

「コワくない」ところがミソであろうか。先頭にもたたない。殿も引き受けたくない。大多数のまんなかに目立たずにいるのが安全である。

大寄せの茶室に入るおおかたの客たちが、ほぼこう考えている。だから、あたかも通過儀礼めいた「正客譲り」の見苦しい時間が必要になる。正客には役も勤めもある。佳い正客だとその茶会がほんとうに楽しい。しかし、そう云う体験の乏しいことは、皆が皆にがり切って承知している。

 同じ様なことが、末座に詰めて席の流れを締めくくってゆく「お詰」にも言える。ここで気が利かないでは、ことが渋滞する。おっとり構えていられないぶん、目立つ役柄になる。

 一会の茶会には一種の演戯性が必要である。はやい話が「芝居気」の様なものである。

台本のない演劇とでもいえる。台本がないからと云って、行きあたりバッタリかと云うと、そんな事はない。亭主が心して招いている客であり、顔ぶれにはおのずと趣意が生かれていよう。しかも時あり所あり、それにも大いに意があって汲まねばならない。

 さらには当日馳走の道具にもいろいろ選択が働いている。つまり目に見えないだけで、あらましの台本はしっかりできている。要するにそこに祈願されている意図と流れを主と客とで美しく楽しく具現出来るかどうかが一会の茶会の要所になる。もっとも大寄せの茶会ではこうはいかない。諸事大雑把になりがちである。主客親密な小寄せの茶会が、やはり本当であろう。

 茶の湯は、云うまでもなく、けっして日常の場と同じ延長線上にはない。質の次元を少し異にしている。似ている様で言葉も、振舞も、ふだんとは異なっている。そらぞらしすぎるのは困るが、少々の芝居気がことに正客の場合には望まれる。

 「正しい客」と書いて「お正客」。但し次客以下は正しくない客と云う事ではなく、一月を「お正月」と云うのと同じ事。今日の茶の湯にかぎらず、本来、一会の茶の役を面白くつつがなく分担するくらいの意味で、「上」座の客と「末」座に詰める客とが割振られた。寄合の場にはなくてはならない自然の趣向であり楽しい工夫であった。

 そう云う事を心得て「正客」は勤めたい。決った台詞をきまりきって繰返すだけの、あとはお世辞たらたらと云う「お正客」のおかげでいくつもの茶会はブチこわされている。

 大寄せの難、ここに極まる。ときに独り舞台を演じる様に「正客」を私物化する人もいる。これも困りものである。

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