無想庵コラムCOLUMN

清める

清める

 「清める」ことは茶の作法では本質的に大切な心づかいであるが、それは日本語本来の「美しくする」と云う意味に応じた行為でありたい。言葉を強めて云うならば、不潔な状態からただ清潔な状態にするだけが「清める」の意味でも行為でもない・・・と云うことである。

 稽古場でよく目にする情景だが、茶杓を清めるのに、帛紗でゴシゴシとしごいている人がいる。茶碗を茶巾で力一杯拭っている人も多い。塗蓋の水指や茶箱の蓋でも、帛紗で力強く拭っている人をよく見かける。見ていてアッ!と思う時がある。事実清めているつもりが、見た目にはかえって汚く見えてしまう。そこに「清める」機微がある。清めて見せる、ないし清めかたの様に見せる、そう云う次元の高さ深さは、いづれにしても事実をこえて精神の深処に向けてひらめく美の演出が、茶の湯の「清める」には不可欠なのである。

 茶杓にせよ茶碗にせよ、また盆や蓋でも、客の前へ心して持ち出されるものが不潔である道理がない。すでに水屋でこの上なく心づかいして清められてある。それを、なお客の前でていねいに清めて見せるのは、大仰に云えばそれが物や人への「愛」であり、「礼」であり、また物や人が占めている世界を、さらには精神を「美しくする」と云う演出なのである。事実拭うから美しくなるのではなく、拭うが如くにして拭わないから拭う以上に美しくなると云う事も知る必要がある。

 美しいものとは、もともと美しいだけではなく、一層美しくされて行くと云う事もある。

美が文化になるのはこの「美しくなって行く」と云う過程、つまり人手や人の思いが加わってさまざまに魅力を増すと云うことである。たんに自然の美のほかに、人の世には人間的な演技的な美というのがあり、茶の湯が創造してきた美もすぐれた「手塩にかけられた美」の一ツなのである。ことに「清める」よろこびを手と物とが奏でる音楽の様に構築したすばらしさは、自然に見えれば見えるだけ文化の名に背かない。茶の湯は安易なリアリズムの芸ではないのだ。

 日本人の一番好んできた美と精神の価値は、昔からやはり「清い」と云うことであったと思う。

和敬といい、静寂と云うとき、この「清」をふつうに云う清潔の意味のみでない事に心し度い。

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