無想庵コラムCOLUMN

点前作法

点前作法

 ある目的に対して、一定の「手順」を必然の経過として調えたもの。それが「手続き」本来の意味であろうと思う。

 「手順」「手続き」とは、まこと、思えば思う程深読みの利く言葉である。文明の歴史が読み取れる。法や規則や、また技術や能率の歴史がよみとれる。人の歴史は、文字どうり「手さぐり」「手当たり次第」の生活から「手順」「手続き」を適切に組み立ててきたのである。

 手から手への続きかたに必然の順序がたち、しかもそれが実用にかない美しい形を表現する。茶の湯の作法はまさしくその様に工夫され構築されている。ことに裏千家の作法は、平点前をみるかぎり、人の肉体と手と道具とのかねあいが的確に美しく、いつも感心する。妙な表現をあえてするならば、「必然の美」とでも言いたい「用途化」が極限まで遂げられている様に思う。だからこそ、平点前は難しい。ごまかしがきかない。

 たとえば風炉の点前で、水指の蓋を三手にとって置く、また三手にとって蓋をする、あの「手順」「手続き」はそれが三手を要する用と美両面からの必然をそつなく表現している。共蓋の丸い摘みでは意識されないかもしれないが、塗蓋で、一文字の摘みが水指わきに立て掛けられた時にきれいに横一文字になる様、しかも扱って持ちかえる右手左手に少しの無理も不自然もなく「手順」を運ぶには、もうそれしかない決定的な「手続き」ができている。蓋を取るときの二手め三手め、蓋をする時の一手め二手めの微妙な「手がかり」の位置の差といったものも、ふだんの稽古をていねいに何度も自覚しながらやってみると、点前作法の美の組み立てが想像以上に巧く考えられていることに驚くだろう。

 だが、それとても、どうしても一つの「ステップ」を越えないと「美」には至らないのである。つまり「作法」と云うその「作」の性質がただの「動作」であっては、どう「手順」を正しく追おうとも、その「手続き」を演じる側にも見物する側にも美しく映像化されないと云うことである。「作法」の「作」がただ単なる「動作」ではなく、いわゆる「所作」となって「手続き」に独自の見映えと佳い緊張感とが表現されなくてはならないのである。見映えは「器用」とも関係しよう。佳い緊張とは、いわば時を通過する「手順」の運びに生き生きとした「間合い」が効果を持つと云う事である。点前作法とは、いわゆるみごとな「所作」であり、ただの日常動作と同じレベルにはない。

 茶の湯の場が、日常の場のただの延長上にはないと云う基本がいつも頭にあれば、主も客も、点前作法のあるべき姿を見失う事はあるまい。

コメントを残す

記事に関するご質問やご意見などありましたら下記のフォームよりお気軽に投稿ください。