無想庵コラムCOLUMN

総礼

総礼

 稽古場の雰囲気に馴れきってしまうと、思いのほかに大切なことが大切でなく受取れて、文字どうり「型通り」にやり過ごしてしまう。「総礼」もその一ツ。型にさえはまっていれば、それで用が足りる、事は済んでしまう・・・と、気にかけなくなる。まさに通過儀礼になってしまう。

 「総礼」

あまり耳に響きの良い言葉ではない。前項の「拝見」のように、一会の茶の湯で客のだれかから発せられる言葉でもない。稽古の折に先生の口から、

「はい、そこで総礼」

などと教えられる。「え?」と不思議そうな顔をすれば、点前をしている人と客とが一斉に黙礼をかわすのですよ、とでも教えられるだろう。なるほど「総員、礼」の意味かと合点する。それも、薄茶点前の折のはじめの礼は「総礼」とは言わない。濃茶点前に入って、初めてこの言葉を習う事になる。総員で礼をする時点が、薄茶の時と目立ってちがうからだ。道具を持ち出す時でなく、すでに席入りし、柄杓を蓋置に引いたところで、

「総礼・・・、そして建水をすすめて・・・」

となる。顕著に薄茶点前の時とは違うので、少しエラクなった用な気になるが、それは稽古の折のはなし。

 実際に茶室でのこの「総礼」の場面に至って、みごと気が揃った時など、それは気持ちのいいものだ。一瞬に茶境が深まる。総員の気持ちが、まさしく和敬清寂の一点へ結集してゆく。目に見えてそれが判る。主と客とを、まだ、あおれまで微妙に隔てていた目に見えない扉が、この「総礼」の美しい成就によって開かれる。一座建立のそれが実質的なはじまりになる・・・と言いたい程の効果をあげる。「総礼」でそう言う至福の時を体験した人は幸せである。

 かりにも「礼」をである。「礼」をすることすらである。点前作法の「手順」「手続きの一コマとしか考えられない人と同席した時の「総礼」

 まるで準備体操の様にからだが揺れる。待ってました・・・とばかりの「礼」であり、済めばやれやれと息をついている。

 どう云う心づもりで頭をさげているのか・・・そもそも心づもりもなにも「礼」の意味、それも茶の湯と云う寄合の場で主客が心してたしかめ合う親しみや敬愛等のよろこびが伴っていない。なにを教え何を習ってきたのか。  「総礼」は、深いよろこびと心ない型通りとの危うい分水嶺である。

コメントを残す

記事に関するご質問やご意見などありましたら下記のフォームよりお気軽に投稿ください。