無想庵コラムCOLUMN

置き合す

置き合す

 同じテニスボールを二ツ、くっつけて置く。今度は少し離して置く。もっと離して置く

 もっともっと離して置く。くっついていても二ツは二ツ。だがひとかたまりにもみえる

 うんと離れてしまえば、二ツと云うよりはバラバラの一つずつである。二つのボールがひとかたまりでもなく、二ツバラバラでもなく、いい相互関係にまとまって見える適切な間隔と云うものが、必ずある。不思議に微妙に、けれど確かにある。

 くっつきすぎれば重くなる。離れ過ぎると心もとない。つかず離れず、しかも両者の質・量・力の関係が快く係わりあい、しかも互いを著しく冒すと云うこともない、そう云う間隔の取りかた。例えば同じ大きさのテニスボールが二ツでなくて三ツ、または、二ツは二ツでもその一ツは小さいピンポン球になれば、その多少や大小のバランスでまた互いの間隔は変らねばならない。物と物とを適切に「置き合す」とは、その微妙に決定的な間隔を、時に応じ場合に応じて発見し選択して、最良の空間美を生み創り出すことを云う。 

 少しでも判断を誤れば、それにより生まれる空間は、間が混むなり抜けるなりする。

 水指の前に置き合わされた棗と茶筅。茶碗と棗。棚の上に「入」字に置かれた柄杓と蓋置。

 拝見に出された棗と茶杓、ないし茶入と茶杓と仕服。また客の手もとへ運ばれた二ツの菓子器。数えあげればいろいろある。香合と羽箒も置き合されるし、長板や台子にのる皆具も置き合わされている。

 そもそも釜と棚や水指とも、質的な取り合わせ以前に物のカサそしてまず適当に置き合されているのである。

 間隔を必ず何センチと云う様には決定出来ない。何でも彼でも決まり切った間隔とはかぎらない。道具同士お互いの色や大きさや重さによって、仮に稽古場で数えられるそれらの数字も、おおよその目安になるだけである。手と目との操縦が、点前をする物の美意識にゆだねられ、その判断は時に一会の茶会を最良にも最悪にも変えてしまう。

 同じ茶碗と茶器であっても、水指の形がスリムな寸胴形か、又ゆたかな太鼓胴かで、その前に置き合せる微妙な間隔の差が軽量できないでは困る。

 たとえ一ツの同じ水指の前に茶碗と棗を置き合すのであっても、普通の中棗か平棗かによって茶碗ないし水指との置き合せ間隔は動かざるをえない。

 どう動くか、動かすか。その一瞬に点前をする人の磨かれた判断が生き作為が生まれ、決まり切った手順をただ追っている様でいながら、無限に可能な美への追及の好機が生まれる。この好機の楽しさを覚えた時、茶の湯の楽しみは倍増するのである。

 もう一つ大切な「置き合せ」。それは、点前をする自分の「からだ」をよく知ったうえで、当日使用する諸道具とそれを用いる自身との相互間隔を、先ず適切に勘定に入れておくと云うこと。身の「置きどころ」はどんな時にも大切にしたい。

コメントを残す

記事に関するご質問やご意見などありましたら下記のフォームよりお気軽に投稿ください。