無想庵コラムCOLUMN

置く

置く

 茶の湯とは、いろんな道具をそれぞれに使いながらの、茶室内での主客交歓であると云える。道具は時に持たれ運ばれ、そしてしかるべき場所に置かれる。当然の事ながら宙に遊ばせてはおけない。

 持ち扱う事には、目立っての美しさがある。はでやかに人目を引くし、そうしている当人にも、さも所作をしていると云う意識がある。気は、その分つかわれている。

 ところがもって扱って使っていた道具をさて「置く」という段になると、なぜか気がぬけるのか散るのか、あたかも為すべきはもう為し終えて、ただ後始末をしているだけの義理か厄介の様な動作になってしまう。まるで「置く」と云う手順を軽蔑するか、それほどでなくても軽くみるかの様に、急に無造作にどすんと置いたりする。されば茶碗がぐらつく。今足ったお茶の茶碗は、手離れの瞬間にユラユラとあやうく畳の上で揺れ動く。あたかも高台が畳の上で踊る感じ。棗が掌の中であやうく泳ぐ。茶杓は棗の上で磁石の様に回る。釜の蓋が蓋置から横倒しにころげ落ちる。その釜の蓋の上で茶巾がそっぽを向く。

 水指の蓋は水指の胴を滑ってあらぬ方をむく。置いたつもりの柄杓が釜の向うへまっさかさまに姿を消す。

 水指の前から膝前へ茶碗を持ってきたがいいが、いい加減に「置く」ものだから、次なる棗が茶碗と膝の間に置けない・・・・なんてことは稽古場でザラにみる。茶会ですら見かける。一度置いた茶碗を動かそうにも手には棗がある。仕方なく棗は宙に、体ごとうしろへ退く。それでやっと棗は置けたものの、今度はうしろへさがったぶん、釜の蓋や水指が遠くなって、少しはじらいながらまた体ごと前へ出たりする。「置く」大事さに思い至っていないからの身から出たサビである。

 なぜ「置く」が大事か。持ったり扱ったりは、微妙に持ち直しや扱い直しが利いて、達者な人なら別にどうと云う事もない。ところが、「置く」ということについては、「置き直し」は利かないのである。「置き直」せばかならず見苦しくなる。点前の流れは乱れる。

 間が崩れる。しかも「置いた」場所はその後を支配的に規制する。 

 もう一つ。「置く」と云う行為にこそ静かな心の集中がなければ、必ず「置いた」瞬間に道具は揺れる。手と道具と畳や棚などとの接着の角度がよほどしっかり覚悟され、その上に道具の大小、軽量などが入念に意識されていないと、わずかな力の過不足で捻じれたり滑ったり、弾んだりする。

 「置く」が稽古の盲点になり、失敗はそこから起きる。物は置けなくて、気が置ける。

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