銘

「お棗のお塗は」
「八代宗哲でございます」
「お茶杓のお作は」
「玄々斎でございます」
「何か御銘でも」
「お道具の拝見」のこう云う一般的な挨拶が、茶の湯の稽古の初めの頃には、なんだか強烈に記憶され、何でこんな挨拶が必要なのか・・・と疑問に感じる人も少なくない。
さらにこの次にくる「御銘」を具体的に披露する段になって、内心、音をあげる。
「松風でございます」
「村雨でございます」
と云う風に、稽古場で先生が、何だか訳の判らない様な又風稚そうな言葉を口授している場合が多い。教わる方も、おうむがえしに「松風」とか「村雨」とか、先生の言葉通りに答えている。
はなから「御銘」なるものの意味も意義も判らなくて、まるで符号の様な・・・。
「先生、一体御銘って何ですか」と一度聞いてみたらどうだろう。もし問われたら、先生は何と応えるだろう。
「御銘」は、たんなる「名」ではない。「肝に銘じる」とか「鐘銘」とか云う。もとは、金属や石物の類に刻みつけて何か特色や来歴をしるす文言だったのだろう。刀の作名なども「銘」と云うが、これは茶杓の場合と同様「作は**」「銘は○○」などと云う。
人名でもない。物の別名やニックネームとも少し違う。
しかし、茶杓に限らず、又茶の湯に限った事でもないが、ことに茶の湯の場合の「銘」はなかなか大切な意義と態度とに支えられ、それが納得できれば、文字どうり感銘も趣も深いものである。
一ツには、物にも命があり風情があって、それが語りかける言葉として、その物と、さながら親しい人とつき合う様に接する姿勢が茶人にはある。そこで銘と云う、あたかも深切な批評や評判にちかい文言を、ていねいにその物に添えて、その物の佳さをより一層生かそうとするのである。
別な言い方をすれば、その物への思い入れの深さを、人は「銘」で表現し「銘」から察して、そこに人と人との相寄る魂の拠り所を認め合う。物の世界をどれほど確に批評したか把握したか。「銘」とはその一ツの「答」ではないか。
二ツには、季節や行事などすべて「おり・ふし」にかなって、それを引き立て、映えさせる働きを「銘」は持っているし、又持たせねばならない。これも又、「おり・ふし」と言う無視しがたいものに向きあう心根が、こまやかに、いきいきといつも人や場所や自然へつながっていなくては出来ることではない。
「感銘」・・・茶の湯で表現したいのはこれなのだ。