無想庵コラムCOLUMN

禅と茶道

禅と茶道

禅(禅宗)というのは、 座禅の修行で有名ですが、 中国から伝わった仏教の一つです。

禅とは一言で表すと、『精神を統一することによって、ほんとうの自己に徹することである』と 「茶と禅」の著者・伊藤古鑑は、 述べています。

禅宗の歴史を少し紹介します。

西暦520年頃にインドから中国へ布教にやってきた、達磨(だるま)大師ともいわれる、菩提達磨(ぼだいだるま) (お釈迦さまから28代目の祖師 )により中国に禅宗が伝えられました。

唐代末期、旧仏教は廃仏毀釈の嵐の中で衰退、禅宗だけが生き残り、南宋時代(1127-1279年)には達磨以来の純粋禅を貫いた臨済宗・曹洞宗がますます禅の隆盛期を迎えました。

しかし13世紀後半、元の時代(1271-1368年)になるとチベット仏教が国教となり、純粋禅は活路を求め、多くの禅僧が来日しました。

日本には鎌倉時代に栄西(ようさい)が、南宋代の中国に渡って天台山の万年寺で禅宗を学び、建久2年(1191)に帰国し、初めて臨済宗(りんざいしゅう)黄竜派を伝えました。
この鎌倉時代には、仏教は一般民衆の信仰を集め、禅宗のほかにも浄土宗、浄土真宗、日蓮宗がこの時代に誕生しています。

室町時代になると、座禅の考え方が武士階級にも広まり、幕府の五山制度の禅院保護政策により、禅宗は隆盛を極めていました。しかし室町幕府が滅びると日本の禅宗も衰退していってしまったようです。

さらに戦国時代になると、織田信長によりキリスト教布教のために仏教は徹底的に迫害されます。
その後、江戸時代になると禅宗のひとつである黄檗宗(おうばくしゅう)が、 中国より来日した隠元(いんげん)によって開かれました。隠元は万治元年(1658)の徳川家綱との会見により、山城国宇治郡大和田に寺地を賜り、黄檗山萬福寺を創建しました。
ちなみにインゲン豆はこの隠元が日本に持ってきて、禅の普茶料理の材料として普及させたものだそうです。

また衰退していた臨済宗を再興したのは江戸中期の白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師(1685~1768)で、江戸期までは臨済宗・曹洞宗・黄檗宗は、あまり区別されずに禅宗として一まとめに扱われていたようです。

一方、茶は禅宗の僧によって鎌倉時代に 薬として 日本へ持ち込まれ、禅宗の普及と共に、喫茶の文化も広まっていきました。
栄西が持ち帰った茶の種を、筑前の脊振山の中腹にある霊仙寺(りょうせんじ)(佐賀県神埼郡東脊振村)に捲き、茶栽培(岩上茶)を推進し、お茶を飲む習慣を日本に持ち込んだことも有名です。ちなみに宇治茶は、栄西が東脊振から送った種が始まりとされています。

現在でも、家元を始めとする茶家の方達は禅宗の僧を師として修行されているほど、禅宗が茶道の精神性の基になっているのは間違いないですが、茶の湯(茶道)の成立過程をみると、中国的なものから離れ、和様化する過程でもあったのにも関わらず、なぜ、禅と茶の湯(茶道)が不離の関係になったのでしょうか?


千利休の弟子である 山上宗二は 「茶の湯は禅宗より出たるに依りて、僧の行を専にする也。珠光・紹鴎・皆禅宗也。」と書物に書いています。

千利休は大徳寺の古渓宗陳らに参禅して修行しました。その利休の師である武野紹鴎も、またその師の珠光も、禅宗の系譜の中に位置づけられている人物です。
千利休は自身の茶の湯「侘び茶」の「開山」を珠光として位置づけているようです。

茶の湯(茶道)、特に「侘び茶」という世界観で、「茶禅一味」がという考えが大切にされていますが、 「侘び茶」そのものが、上記の系譜により禅宗から生まれたものであると言えるのかもしれません。
禅が「清浄無垢の世界」を目指すならば、それは天地自然の摂理の中で生きていた縄文時代以来の日本の人びとの精神とも相通じるものがあり、その精神は日本人の本質を形成している と利休たちは考えていたのではないでしょうか。
(ちなみに茶禅一味とは茶道と禅とは一体であるという意味で、 「侘び」とは、「清浄無垢の仏世界」とことを言います 。)

このことが和様化を進めることによって成立した茶の湯(茶道)が、中国から伝来した禅と一体となって、「茶禅一味」基本理念として保持し続けた所以かもしれません。

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