無想庵コラムCOLUMN

本来無一物 十月の掛け物

本来無一物 十月の掛け物

本来無一物(ほんらいむいちもつ)

出典は、南宗禅の祖となった、中国禅宗の六祖 慧能大鑑(えのうだいかん)の『六祖壇経(ろくそだんきょう)』 です。

本来無一物」という語は、聞いたことがありそうな禅の代表的な言葉ですね。文字だけ読むと、「もともと何も無い」というような理解になるかと思います。
しかしこの「本来」という語は、もともとという意味ではなく、「本質的に」とか、「根源的に」ということであるのです。また「無一物」は何も無いということではなくて、 有も無もそこから出てくるような「根源」をいうのです。 人間の身体や心もまた、そういう「一切を超えた根源」から現われ出ているものであるから、それを「清浄なもの」だと考え、煩悩のような「不浄なもの」を避けようとするのは、「小乗仏教的」な二元論に過ぎないと禅語の解説書には記されています。すごく宗教の教義的な解釈の話になってしまいました。
  慧能大鑑(えのうだいかん)は、「清」も「濁」も、ともに根源の「空」の現われ方の違いであるから、清と濁、善と悪というように、分別してしまうのは、真実についての誤った理解で、両者は同じ価値である。それを差別することが迷いである。 と言っています。なるほど清らかな処に塵が溜るなら払わなければならないが、何にもなければ塵も溜らないというのが、という主張です。

この句にはエピソードがあって、「この身体は菩提樹、心は明るい鏡のようなもの。常に拭き清めて塵の溜らぬようにせよ」と偉い禅師が言いました。これを聞いた寺男の盧行者(ろあんじゃ)(後の六祖慧能)は「身体も心もそのように立派なものではない。もともと実体など無い(本来無一物)のだ。どうして無いものの上に塵の溜ることがあろう」と、自分の心境を吐露したとのことです。 彼の悟りの境地を披歴した偈の中に出てきます。

前文で 慧能大鑑(えのうだいかん)の寺男時代の話と書きましたが、 彼は母子家庭で非常に貧しく、教育も受けられませんでした。貧しいので物売りをしていたのですが、ある時とある家から聞こえたお経に、何かを感じ五祖弘忍(ぐにん)に弟子入りします。ただそこには修行僧がなんと700人くらい居たそうで、字も読めず、先輩も多いので、仏教の修行はできず、ただひたすら臼をつくという単純作業ばかりしていました。体も小さく軽いので、石を腰に付けて臼をついたことから 盧行者(ろあんじゃ) と呼ばれていたそうです。

悟りを開いた慧能ですが、彼の主張は一つの物ごとに脇目も降らず一生懸命打ち込むことで、座禅瞑想したりしなくても、たとえ学問が無くても、経験や実践を通して仏になれるということなのです。

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