無想庵コラムCOLUMN

一無位真人 七月の掛け物

一無位真人 七月の掛け物

一無位真人(いちむいのしんにん)

この禅語の出典は臨済宗の宗祖、臨済禅師の語録『臨済録』です。(臨済録は禅語の宝庫ですね。)

臨済禅師のお説法の中でも、もっともよく知られている言葉に、 「無位の真人」というものがあります。 この「無位の真人」とはどんな人のことでしょうか?

地位や肩書き、学歴など表面的な価値や、見栄を張る心などを捨て去って、自然のままの、本来の自分(純粋な本質としての自分自身)のことを言います。

原文は対句になっていて、結構長いです。「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位の真人有り、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は、看よ看よ」です。
赤肉とは人間の肉体のことで、その生身の身体に、何の位も無い真実の人がいる。その無位真人が身体を出たり入ったりしている。それをまだ見れない者は、しっかり見届けなさい。 という意味です。

私とは、一体なんでしょうか。あなたは誰かと問われれば、まず名前を答えるでしょう。しかし、それは宇宙からしてみれば、仮に付けられたものに過ぎません。(もちろん名前は大事ですが)
どこの生まれであるとか、今何をしているとか、どれくらいの財産をもっているかなどというのも、本当の自分を表すものはいえませんよね。。
臨済禅師は、修行の中で、名前や年齢や、性格や職業など、または地位や名誉などではない、真の自分とは何かを問われたのです。

本当の自分というのは、禅においては仏と同じ意味なんだそうです。

仏とは死んでしまった人や、悟りを開いた人など遠い存在ではなく、自分自身がこの生身の体を通して、見たり聴いたり、坐ったり歩いたりしている、全ての営みそのものだというのです。本当の自分は、これから何処かに探し求めるというものではなく、今ここにいるというのです。

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