体中玄 六月の掛け物
体中玄(たいちゅうげん)
出典はお馴染みの『臨済録(りんざいろく)』です。今までも何度かこの『臨済録』から禅語をご紹介しましたが、今一度ご説明すると臨済義玄という中国の唐の時代の禅僧の語録です。
その臨済禅師の言葉に「三玄三要(さんげんさんよう)」というのが有ります。「三玄」というのは、「体中玄、句中玄、玄中玄」の三つを指します。
先ず、「玄」の意味ですが、 玄を使う言葉で思いだされるのは、玄人(くろうと)が最初に浮かびます。 他にも幽玄の玄とか…。
玄は黒を表わすのだそうで、奥の深い状態を指します。言葉を換えれば真理、真実を深く極めた人という意味で捉える事ができますね。
ですから、三玄とは、3つの真理、真実と考えられると思います。
1、「体中玄」とは、物事の姿や形の中に真実を見つけ出そうということ。
「体」は本体とか身体のことで、「体中玄」とは形あるものとか、目に見えるものの中に真実を求めていくという意味になると思います。
人間は、眼で見えるもの、耳で聴こえるもの、手で触って感じるものなど、自分の五感を使って知り得たことを、脳で理解します。
ところがその脳は、理解するときにそれまでの自分の経験から得た情報により、組み合わせて、姿、形をそこにあるものと認識しています。つまり人それぞれ個々のバイアス(色眼鏡)が掛かっているわけです。
私たちが見て、感じて、認識しているものは本当に偽りのない真実なのでしょうか?
右の掛け物は、体中玄の「体」が「 體 」という今は使われていない漢字になってます。絶対に読めませんね(笑)でも、今回の話を覚えていれば感で分かりますよ!
2、「句中玄」とは、言葉に込められた根本の意味を見つけ出そうということ。
「句中玄」の「句」は語句の句で、言葉とか語句の中に真実を見ていくことです。 私たちは言葉を介して、他者のことを知ろう、分かろうとしますよね?
他者だけでなく自分自身も、言葉を介して理解しようとしています。
ですが、臨済禅師は言葉そのものも、記号と同じだと言うのです。一つのコミュニティーで、お互いが理解しあえる共通の記号として、使われているものですよね?「これはこれを指す」という決めごとであって、正に共通言語と言うやつです。
言葉を記号としてではなく、実体験として認知している人が、例えば人生経験の長い人とかは、同じ会話からでも、相手から聴き取ることができる範疇?真意?は広いと思います。
もちろん、相手が言っていることを理解しようという気が無ければ何にもなりませんが…。
3、「玄中玄」とは、形や言葉に囚われない真実の姿を求めるということ。
最後の「玄中玄」は真実の中に真実を見て取るといった感じになると思います。
例えば人が深く悲しんでいて、泪がでないほど哀しいとき、その人を黙って抱きしめてあげる。 なぜ哀しんでいるのか、どうしたら哀しみを癒してあげられるのか、
なんて考えるより、ただ寄り添って一緒に居てあげる方が、救われるし、癒されますよね?
このように観ていきますと、形を観ようとか言葉を聴こうというだけではない、なにかがあると気がつきます。