坐忘 十一月の禅語
坐忘(ざぼう)
私は裏千家でお茶を習っていますが、当代のお家元は、十六代宗匠で坐忘斎とおっしゃられます。「坐忘」は以前から取り上げたかった禅語ですが、ちょっと畏れ多いと感じてしまい、中々取り上げる事が出来ませんでした。今月は茶人の正月、炉開きの月でもあるので、思い切って取り上げてみたいと思います。
「坐忘」とは、れっきとした禅語の一つで、中国の古典「荘子」に登場しています。文字通り座って心を静め、自己認識やあらゆる執着を手放し、忘れ去ることを意味しています。自分や物事へのとらわれを捨て、ありのままの存在として、自然と一体になる境地を目指すのが「坐忘」と言う状態なわけです。
無想庵の名前も実はここに通じていて、心を無にし、雑念や執着を手放すことで心の深い静けさを得ようという基本精神があります。人間なので中々雑念も執着も捨てられないとは思いますが、無念無想の状態に近づこうとすることで随分平穏な精神状態をキープ出来ていると私自身実感しています。禅宗の教えでも、この坐忘の状態が、真の平安や悟りの一歩とされています。
私自身は修行僧ではないですが、お茶を通して、少しは禅の精神が育まれてきたのかも知れませんね。