無想庵コラムCOLUMN

道安忌

道安忌

皆さんは千道安をご存知でしょうか?私は名前しか聞いたことがなく、知っているとすればせいぜい道安風炉という風炉ぐらいしか知りませんでした。今日は皆さんとご一緒に勉強したいと思います。

以下は フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia』からの出典です。一部文章を整えて読みやすくしています。

千道安(せんの どうあん)

天文15年(1546年)、千宗易(利休)の長男として生まれました。母は宝心妙樹という人。千家の嫡男ですが宝心が没し利休が再婚すると、以後は利休と折り合いが悪くなり若い頃に家を出ました。のちに利休と和解しましたが、利休の再婚相手の連れ子で同い年である千少庵(せんの しょうあん)との折り合いは悪く、終生茶会に両者が同席することはなかったそうです。

茶の道を修め豊臣秀吉の茶頭八人衆に数えられるまでになりました。利休切腹後(天正19年(1591年)は飛騨高山藩主金森長近に預けられ蟄居、謹慎を命じられました。
その後、文禄3年(1594年)に赦されて堺に戻り、千家の家督を継ぎました(堺千家)。その際に少庵の息子である千宗旦により千家再興が達せられました。秀吉没後は慶長6年(1601年)、細川三斎に招かれ、茶頭となって領地も拝領したようです。

慶長12年(1607年)の今日、2月17日に死去、享年62歳でした。大宰府の崇福寺に葬られましたが、現在の墓所は堺市南宗寺です。

道安はしばしば義弟である千少庵との対比で語られることが多く、中には少庵を道安より優れていたように描く逸話もあるが、これは現存しているのが少庵系統の三千家周辺のものである事実を考慮する必要があるとのこと。そうした資料の中でも道安についての賞賛が散見されるところから、当時際だった才能を発揮していたことが伺われる。少庵は先天的に足に不自由があったが、これが三千家系統の資料では道安に置き換えるなどの事実関係の齟齬も確認されているらしいです。

道安についてはいくつか逸話があります。

  • 利休がこの二人に竹の蓋置を選ばせたところ、道安は節のついたゴツゴツとした蓋置を、少庵は節のない滑らかな蓋置を選んだというエピソードがあり、道安は磊落な性格、少庵は繊細な性格であったとされています(『江岑夏書』)。
  • 秀吉が利休に「大仏(方広寺)の内陣を囲いて茶の湯すべき者は誰ぞ」と尋ねたところ、「道安が仕るべき」と道安を推挙したとの逸話が残されている(『茶話指月集』)。
  • 道安の茶会に招かれた利休が亭主を待つ間「露地の飛び石の据え方がひとつだけ高い」と話したところ、勝手で聴いていた道安は中立ちの間に的確に直したという(前掲書)。
  • 少庵が千家を再興した後、秀吉に呼ばれた道安が御前で茶を点てたところ、秀吉は「宗易が手前によく似たる」と褒めた(前掲書)。

道安の数々の功績も紹介しておきましょう。

  • 道安が金属片を使って灰をならしていたのが、金属製の灰匙の始まりだと言われています。金属製の灰匙は当初利休から「飯杓子」と嘲笑されたが、のちに利休も用いるようになったということです。
  • 塗り蓋を拭いてから茶巾をおく手前は、道安が始めた物と言われています。
  • 道安囲、道安風炉の考案

道安囲(宗貞囲)

【左写真】 道安囲、京都を歩くアルバムというブログからの写真です。

http://kyoto-albumwalking2.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-1603.html

客座と手前座の間に中柱を建て壁で仕切られているのが特徴で、道安囲あるいは宗貞囲(そうていかこい)と呼ばれています。

道安風炉

道安風炉(どうあんぶろ)は、土風炉の形状のひとつで、口は折口で、胴はほぼ垂直でわずかに膨らみを帯び、鐶付はなく、火口は口から腰まで大きく刳り、底は浅い丸底で、腰の低い足をつけた風炉です。

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