無想庵コラムCOLUMN

水仙ちまき 五月のお菓子

水仙ちまき 五月のお菓子

粽(ちまき)

端午の節句には、やっぱりちまきですね。昔、禁裏( 皇居、御所、宮中のこと )では端午の節句には千本ものちまきが山積みされたそうです。御所言葉では「まき」と言うらしいですが、江戸時代には最高1万1千本ものちまきが権威を誇示するために作られたそうです。すごいですね~!この頃のちまきは今と違って団子を笹の葉で包んだものだったようです。今は、葛に餡を練りこんだ羊羹ちまきが主流ではないでしょうか?また葛と砂糖だけのものを水仙ちまきと言いますが、こちらも茶席ではよく頂けます。

端午の節句に食べるだけあって、ちまきには子どもの健やかな成長を祈る気持ちと、魔除けの意味が込められています。 例えば、ちまきを包む茅(ちがや)や笹の葉も、香りが強く感じられますが、この香りには邪気を払う働きがあると信じられていたため、ちまきは厄除けのための食べ物でもあったのようなのです。 また、包んだちまきを結ぶ糸の色にも意味があります。赤・青・黄・白・黒の5色の糸は、五行説で万物のもととされている『木火土金水』に対応したものです。五行を取り入れることで、子どもの健康や魔除けを祈願していたのですね。

平安時代に中国から伝わったとされるちまきですが、なぜ端午の節句に食べられるようになったのでしょうか? 5月5日にちまきを食べるようになったのは、今から2300年ほど前に中国にあった楚という国の詩人『屈原(くつげん)』の故事に由来するそうです。屈原は国王の側近として活躍し、民衆に慕われていましたが、陰謀によって失脚し、5月5日に川へ身投げしたそうです。

川端道喜のちまき

悲しんだ人々は、毎年5月5日に川へ供物を投げ入れました。しかし、ある村人の夢に現れた屈原の話によると、供物が悪い竜に横取りされているというのです。そこで人々は、ちまきを作って川へ投げ込みました。すると、供物が横取りされることなく、屈原まで届くようになったそうです。この故事が5月5日にちまきを食べる風習のもとになったということです。

現在ではこどもの日として認識されている5月5日ですが、国民の祝日として制定されたのは1948年戦後のことでした。もともと端午の節句として古くからお祝いされてきた日が、子どもの人格を重んじ幸福を願い、母へ感謝する日として、改めて制定されたそうです。

古来、日本では、田植えをする若い女性『早乙女(さおとめ)』の厄払いの日が、旧暦5月の端午の日でした。若い娘が小屋や神社にこもって身を清める『五月忌(さつきいみ)』という儀式をして、稲の豊作を願ったのです。この五月忌に、中国から伝わってきた菖蒲で魔除けをして健康を願うという風習が結びつくことで、端午の節句として定着したといわれています。ですので、男子の節句と言うより女子のためのものだったはずですが、鎌倉時代以降になると、菖蒲が武将を意味する『尚武』と同じ読み方ということから、徐々に男の子の節句へと変化したいったそうです。

確かに子供の日と言いながら、男の子のお祝いの日と言う感じがしていたのも、3月3日の桃の節句に対抗するためばかりではなかったのですね!?一応それなりの根拠があったわけです。

因みに ちまきを食べるのは関西を中心とした地域で、関東では『かしわ餅』が一般的なんだそうです。 来年の五月のお菓子は柏餅を取り上げます(予告)!(笑)

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