千家十職とは ①
千家十職 (せんけじっしょく)
茶の湯の道具は茶碗や茶入、茶杓や棚に釜など本当に数多くの道具を取り合わせて茶会を織りなしています。それぞれのお道具には多くの作家さんがいらっしゃいます。その中でもとりわけ三千家と密に連携し、試行錯誤を重ねて千家の好み道具を制作する職人方の家を千家十職と呼んでいます。 順不同に、①奥村吉兵衛(表具師)、②黒田正玄(竹細工・柄杓師)、③土田友湖(袋師)、④永樂善五郎(土風炉・焼物師)、⑤樂吉左衞門(茶碗師)、⑥大西清右衛門(釜師)、⑦飛来一閑(一閑張細工師)、⑧中村宗哲(塗師)、⑨中川淨益(金もの師)、⑩駒澤利斎(指物師)の十人の職家です。 この言葉が出来たのはそんなに古くなく、 大正時代に入り、茶道界の復興と茶道具制作の需要が飛躍的に増えたころ、 大正4(1915)年に松阪屋百貨店で職家の制作になる好み道具の展観がおこなわれたとき、はじめて「千家十職」の呼称が用いられました。以来、職家の通称として通じています。
この「職家」と呼ばれる家々では、茶事や茶の稽古に必要なすべてを、各家が分担して製作し、家元や茶の湯愛好者のもとめに応じて製作しています。また、茶の道具の基本・基準としての千利休の好みによる形や色が、「職家」の各家で守られ、それぞれの時代の創意工夫が加えられ、今日に伝えられています。このことが「千家十職」の核にあたる意義と言えると思います。
また、茶の湯の道具を制作する職家たちは、ただ単に伝統を固守するだけではなく、自らの創造性や創造意欲を、使い手の利便性や注文主の意向をふまえながら、新しい道具制作に生かしています。楽茶碗の様に代が変わる毎に全く違う意匠で代表作があるのがその証左ですね。このように永い歴史を背景にした職家の独自の立場や気構えがあります。
十家全てを取り上げるのは、紙面の都合上難しいので5回に分けてご紹介していきたいと思います。道具の中でも拝見の時に問答でよく出てくる職方さんからご紹介していきたいと思います。
中村宗哲(そうてつ)(塗師)
今回ご紹介する職方さんは⑧中村宗哲(塗師)さんです。宗哲は 道具のうち漆器などの塗りを担当し、蒔絵などを施す技を継いできました。現在の当主は初代から数えて13代目です。先代の12代宗哲は11代の長女で、 千家十職の歴史のなかで初の女性当主 初めての職家となりました。現在の13代目も12代目の次女であり、家を継ぎました。名前からすると男性のように思えますが、名前もお家元の様に引き継ぐのですね。中村家は武者小路千家の流祖、一翁宗守(当時は 甚右衛門 )が一時父宗旦の下を去り、塗師の吉岡家に養子に入り塗りの修行を重ねて 吉文字屋 という塗師をしていました。 甚右衛門が千家に復することになったとき、隣家の初代宗哲(当時は中村八兵衛)に自分の娘を嫁がせるとともに、塗師の業と吉文字屋を譲りました。 後年、その関係性から江戸時代は武者小路千家と中村宗哲の家は同じ敷地にあったということです。
歴代の中村宗哲の中でも傑士と言われるのが三代目宗哲です。彼は千利休遺愛の茶道具から型を写し、「利休形」として十二器をパターン化した功績が大きいと言われています。(私は道具屋さんではないので、専門外でよくわかりません。)
宗哲の作で特に有名な品はやはり「棗」(なつめ)ですが、 棗は茶器の一種で抹茶を入れる木製漆塗りのふた付き容器のことですね。(現在では薄茶をいれる塗物の器を総じて呼ぶ場合がおおいですが、厳密には違います)。形が植物の棗に似ていることからそう呼ばれるようになりました。
「棗」は塗りあがりまでに、10以上の工程があり、木地とよばれる精巧な素地の木の器に下地の漆を塗り重ね、丹念に研いで形を整えていきます。最後に上塗りを施して「塗りあがり」になるのですが、塗り重ねる漆は数種類に及ぶそうです。種類の異なる漆を使うことで変形を防いでいるらしく、蓋の合わせ具合や精密な面取り、透明感と深みのある棗の表情、数百年を経た今でも変わらない「形」と、宗哲の作品は見れば見るほど「洗練された気品」が宿っていると感じます。(値段が高すぎて道具屋さん主催の茶会でしか拝見したことが無いですが…。)
ネットで宗哲のことを調べていると、代々の宗哲は、俳句や書画、詩歌などに造詣が深いということなので、技術だけでなく精神性や教養もその作品に反映させているのかも知れません。 近年では、当主が女性なったことで今までとは違う感性も加わって、新たな伝統が始まっているのかもしれません。