無想庵コラムCOLUMN

茶の湯と禅語

茶の湯と禅語

禅語とは

茶道をやっているとよく禅語(ぜんご)という言葉を耳にします。禅語とは、禅僧が自らの悟りの境地や(禅の)宗旨を表した語句のことです。これにはちゃんと出典があり、「無門関(むもんかん)」とか「碧巌録(へきがんろく)」と言った昔の伝説的な禅僧の言葉を集めた有名な禅語録からです。その他にも「論語」や「老子」など仏教以外の典籍とか、陶淵明(とうえんめい)など昔の中国の詩人が残した有名な詩句なども含まれます。

茶室に入ると床に掛け軸が掛かっていて、何やら読みにくい漢字で書かれているのを見かけると思いますが、これを墨蹟(ぼくせき)と言い、茶道では墨蹟を重んじています。茶の湯が日本に伝えられた経緯からすると禅宗と茶の湯が一体になっている事と、加えて茶道創成期の茶人(珠光や竹野紹鷗、千利休など)が京都の大徳寺や南禅寺、堺の南宗寺の禅僧と深く親交があったためでしょう。

江戸時代以降、掛け物の中心が季節感を伴う言葉を揮毫(きごう)した一行書になって来ましたが、それでも単なる季節を表す言葉という解釈にとどまらず、その文句の心をうやまう、つまりその言葉の真理を理解しようという姿勢、心構えが茶人には必要だとされています。茶道の精神的な、心の部分ですね。(※揮毫、一行書の説明は茶道の用語辞典でご確認ください。)

墨蹟(ぼくせき)とは

墨蹟とは先ほども述べたように、禅語を僧などが揮毫した掛け物のことですが、始まりは珠光が一休宗純(一休さん)から譲り受けた圜悟克勤(えんごこくごん)という昔の偉い僧の墨蹟を掛けた時と言い伝えられています。

初めは法語偈頌(げじゅ)印可状(いんかじょう)など仏教的書状ばかりでしたが、次第に分かり易くかつウンチクに富む禅語が好まれるようになり一行書というカテゴリーが出来上がって行きました。

茶道では大変重要な書物の一つである『南方録(なんぽうろく)』にも掛物が第一(重要)の道具であると次のように書かれています。

「茶の湯において、掛物ほど大切な道具はない。客も亭主も茶の湯と一つになってその真髄を得るためのものは墨蹟が最上である。そこに書かれている言葉にたくされた心を敬い、筆者である仏道修行者や禅の祖師たちの徳を称賛するのである。」

だから、茶席に入って床の掛物や花、香合を拝見するときに一礼するのは本来墨蹟に対して頭を下げているのです。道具に対して頭を下げているわけではありません。

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