直心是道場 五月の掛け物
直心是道場(じきしんこれどうじょう)
直心とは、執着や分別を離れた浄らかな心のこと。簡単に言うとまっすぐな心とかひたむきな心ということですね。これがいいとか、あれは嫌だとか、そういった執着や分別から離れた、直心で生きるとき、どこであってもその場に仏道の道場が現成しているというのが、言葉の意味です。
この禅語の出典は、 『維摩経』 (ゆいまきょう)という書物に収められています。釈尊の弟子の維摩居士(ゆいまこじ)という人の言葉です。
ある時、光厳童子(こうごんどうじ)という若者が、修行にふさわしい静かな道場を求めて、喧騒な城下町から外に出ていこうとすると、維摩居士と出会いました。
童子が「どちらから来られましたか?」と維摩居士に尋ねると、 「道場から来たよ」 と答えました。
光厳童子が「どこの道場ですか? その道場はどこにあるのですか?」と聞き返すと維摩居士は「直心是道場」と答えられたのです。
どこかにある修行に適した道場というような場所から来たのではなくて、「直心で修行するところが(どこだろうと)道場なんだよ」という返答です。
道場という専用の場所があるのではなくて、直心で修行すれば、そこが道場となっている。心次第でどこであっても道場になり得る。場所に捉われるといけないということですね。
もし、静かで落ち着いて修行のできる快適な場所を見つけたとしても、それは結局自分の都合に合致した場所を見つけたということで、欲や執着の域を出ないと思います。道場が真に道場となり得るかは、その人の心次第であるというのが、この禅語の真意ではないでしょうか?
ただ一方で、人間の人生は置かれた環境に大きく影響を受けてしまうというのも真実です。人間はどうしたって善くも悪くも周囲の環境から影響を受けるため、場所は関係ない、とも言い切れないとも思ってます。
例えば、「置かれた場所で咲きなさい」と言われても、アスファルトやコンクリートの上だったら、いくら努力したところで咲っこないですし、アスファルトの間から育つ雑草も、裂け目や隙間などから運良く土のある部分に落ちた結果であって、アスファルトの上で育ったわけではないでしょう。環境をまったく無視して根性や頑張りだけで咲いたわけではないです。
取り巻く環境も本人の心の持ち方(取り組み方)は、両方ともすごく大事だと思います。いずれにせよ思い込みやこだわりは執着であり、執着それ自体が成長を阻んでいる一番の障壁だと言えます。茶名を頂いてからも、ずっとお茶の修行は続けているし、これからもずっと続いていきます。その心がけをしっかり保ちながら、より良い環境も自ら作っていきたいと思います。