無想庵コラムCOLUMN

流派の話③

流派の話③

石州流(せきしゅう)

石州流 は、片桐石州を流祖と仰ぐ武家茶道の流派の総称です。総称というのもに石州流はも様々な派があるからです。 ウィキペディアによると、 初期の伝承系譜によって派が分かたり、地域ごとにも様々なグループを形成しているようです。 因みに片桐石州は千道安の孫弟子に当たります。

片桐石州は江戸時代、三代将軍家光の時代の人で、後に4代将軍家綱の茶の湯指南役となったことで、以後江戸時代を通じて石州流が幕府の茶道として広がっていくことになる。 昭和初期に当時の当主である片桐貞央子爵を軸に石州流の大同団結が図られたそうで、その結果として、戦後に財団法人高林庵(こうりんあん)が発足し、片桐家を宗家とする一種の家元制度が成立しました。現在は分派して石州流茶道宗家(一般財団法人高林庵、大和郡山市)と茶道石州流宗家(奈良市)という二つの宗家が存在するとのことです。 ということは本拠地は奈良県ということですね。隣県なのでいつか石州流の方とも出会えるかもと期待しています。

宗和流(そうわりゅう)

宗和流の流祖の金森宗和は 飛騨高山の城主の嫡子でありましたが、廃嫡となり、京都に移り済みました。京都では茶の湯を専らにしましたが、その中で 後水尾院(ごみずのおいん)をはじめとする公家との交流が多くなり、やがて「姫宗和」と呼ばれる優美な茶風を築きあげられました。加賀藩3代藩主前田利常より召し抱えの意があった時に、宗和は息子を出仕させました。これより代々、茶道金森家は金沢にあって、以降加賀藩では長らく、宗和流が唯一の茶道流派でありました。 現在お家元は18代目を数えます。

宗和は野々村仁清を指導したり、春慶塗等の好みの茶道具を作ったことでも知られています。八代より世襲制を廃止、十四代が東京に移り、以後東京に伝わるとになります。宗和流の公式サイトによると、宗和の茶風は千道安の流れとも、古田織部の影響も受けたとも言われ、遠州流や上田宗箇流、藪内流といった織部の流れの点前に類似点が多く 見られるとのことです。 金森宗和も上記の片桐石州と同じく千道安の孫弟子に当たり、石州流と元は同系の系譜ということになります。

庸軒流(ようけんりゅう)

藤村庸軒 (1613―99)は 千宗旦 (せんのそうたん) の直弟子であり、宗旦四天王と呼ばれる高弟の一人です。表千家の流れを汲み、庸軒流茶道の開祖です。庸軒は近江(おうみ)の生まれで、京の呉服商藤村家の養子となりました。 茶は藪内紹智(やぶのうちじょうち)に学び、ついで小堀遠州(えんしゅう)や金森宗和(かなもりそうわ)にも学んだそうです。

庸軒流も 他の武家茶道と同じく初期の伝承系譜によって大きくいくつかの派に分けられた他、地域ごとに継承の伝統があります。あまりに分派が多いので詳しくはウィキペディアを参照して欲しいと思います。

速水流(はやみりゅう)

速水流は、江戸時代後期に、速水宗達という茶人によって創始された流派です。現在のお家元は八代目です。 千家茶道の分派の一つです。

速水流の公式サイトによると、宗達の実家は医者でしたが、宗達は医学ではなく儒学や和学を好み、裏千家の一燈宗室から茶の湯を学びんだそうです。その後、茶の湯の起源から侘び茶にいたるまでの経緯を学究的に追究し、室町時代の東山文化の茶湯の点法とその茶道観を再興しました。
宗達の茶は、従来の「茶禅一味」に代表される精神修養的な茶道観とは違い、茶道とは茶を介して人と人とが誠心の交わりを結ぶ礼式」と提唱されています。近年は 京都、大阪、滋賀、広島、東京などで稽古場を開設されています。

この速水流は、裏千家の社中の私からするとかなり違いあるように感じられます。例えば、道具で最も特徴のあるものとして、「帛(ふくさ)」「畳紙(たとうし)」「小掛台(こかけだい)」というものがあります。帛は十二単の「襲(かさね)の色目」を合わせて鱗形(りんぎょう)の二色でできています。これは帛を色によって清潔に使い分けられるようにと考案されているそうです。畳紙とは、奉書紙を畳んだもので、貴人点前や濃茶点前など帛を懐中するときは必ずこれに挟み、出し帛に体温が移らないように気遣われています。

小掛台とは、殿上貴族の方々にお茶を差し上げるものとして、古くからの高貴の調度である「浅香の懸盤(せんこうのかけばん)」より考案された大小一双になった貴人台(きにんだい)のことです。裏千家には無いものなのでどうやって扱うのか興味津々です。

不白流(ふはくりゅう)

川上不白という表千家七代の如心斎の高弟だった人で、この方が参勤交代で江戸に留まっている大名に千家のお茶を指導するために派遣されました。その成果は参勤交代のお陰で全国に広まりました。この時期までの千家は表も裏もそんなに違いはなく、この時期のご両家のお家元は兄弟(表千家六代の覚々斎の息子さん)でした。ですので、どの千家からの分派というよりは千家からという認識が正しいようです。ですので、江戸千家という流派も名前はお聞きになっている方も多いと思います。江戸千家は現在二つに分かれていますが、不白流も江戸千家も、この川上不白が流祖ですので同系です。いずれも東京に本拠があります。(江戸だから当然ですね…)

流派のサイトによると、「作法は現代生活に即して、自然でさらりとしているので、親しみやすいのが特徴」とのことです。 「江戸千家は、不白の教えと侘び茶の精神を尊重しながら、格式ばらずゆったりとお茶を楽しみ、生活の中にお茶の心を見出し、それを生かしてゆけるような茶の湯をめざしています。」という解説がありました。江戸千家のお点前を全く知らないのでどんな風に違うのか興味が尽きません。

大日本茶道学会

明治時代になってから生まれた流派です。元は裏千家の十一代玄々斎の高弟だった前田瑞雪(ずいせつ)のさらにそのお弟子さんだった田中仙樵(せんしょう)という方が発足した学会です。今では流派に至っていて学究色が強い流派です。

五つの茶道理論があるのですが、読んでみますと大変共感できるところが多くありました。残念ながら関西には道場?(教室)が無いようなので、見学することすら出来ませんが、いつか機会があればお稽古したいな~と思える流派です。YouTubeにも動画をアップされているみたいなので、時間のある時見ようと思います。

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