無想庵コラムCOLUMN

流派の話①

流派の話①

三千家(さんせんけ)

茶道には沢山の流派(りゅうは)があります。流派とはそれぞれ異なる流儀を継承する団体(茶道の場合、 家元の宗家の地位を世襲する一子相伝 が多いです)と思っていただければ良いと思います。 流儀、すなわち、ひとつの様式化 ・体系化 された技(技術、技能)を、家元・宗家などを頂点として継承していくシステムと解釈できます。茶道や華道など芸道の流派では、開祖の家系により、家元の宗家の地位を世襲する一子相伝(全伝)の流派(門派)継承が主ですが、門人への流派免許を与える家元制をとっている流派もあります。

さて初心者の方でも、「表千家」とか「裏千家」という単語は聞いたことがあるのではないでしょうか?私もよくお茶をしている人に出会うと、大概最初に「表さん?お裏さん?」と聞かれます。 この表千家と裏千家のほかに「武者小路千家」(むしゃこうじせんけ)があり、これら3つの流派を総称して「三千家」と呼び、現在一番よく知られる茶道の流派になっています。 三千家は千利休の孫である千宗旦(せんのそうたん)が子どもたちにそれぞれ茶室を譲り、同時に千利休の茶の湯が途絶えてしまわないように作ったものなのです。 当時は大名(徳川家)が世の中を支配し、生殺与奪を意のままにしていましたから、いつ難癖?を付けられてお家お取りつぶしになるか分かりませんでしたかね。(教科書的にはそんなことは言えないのでしょうが…。)現に利休は切腹させられ、息子たちも蟄居させられ、宗旦の時代にやっと利休の茶道を続けていくことが許されたのですから。

利休の婿養子・千少庵(しょうあん)の子供である千宗旦(そうたん)には四人の息子がおり、長男を除く三人が茶道を志しました。この三人が、表千家、裏千家、武者小路千家のそれぞれの流派の実質的な創始者になるのです。実質的というのは一応三千家ともに開祖は千利休、二代目が千小庵、三代目が父親の千宗旦だからです。

家系図的に申しますと、次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ)が「武者小路千家」を、三男が江岑宗左(こうしんそうさ)が「表千家」を、四男が仙叟宗室(せんそうそうしつ)が「裏千家」をつくりました。本来、長男が家を継ぐはずですが、理由ははっきりとわかっていませんが、父親と仲違いをして勘当させられたという説があります。

しかし三千家も時代が経過するにつれて、当主の次男や三男が独立するなどして数多くの流派が登場していきました。これに対して、流派が分裂するのを危惧した表千家の7代目当主如心斎が、「千家を名乗るのは表千家、裏千家、武者小路千家の嫡男のみとし、他にはには名乗らせない」と決めたため、現在まで本流と言いますか、有名な千家は「表千家」「裏千家」「武者小路千家」の3つのみなのです。そしてそこから、家元制度が確立され組織として大きくなっていったので、現在私たちがよく耳にする「三千家」となっていったのです。

時代が進むにつれて、流派ごとにそのお点前や作法、お辞儀の仕方、亭主や半東が着ける袱紗など細かいところにそれぞれ特徴や違いが出てきました。。流派が違うと、もちろんお点前や作法、使う道具が異なりますが、根底にある「おもてなしの心」は変わりません。

三千家以外にも大変多くの 千利休の流れを組む 流派会派があります。それぞれの流派 の根底にはきちんと利休のお茶に対する心が根付いて しっかりと受け継がれています。

ところで「表千家」と聞いて「何が表なの?」と疑問を持ったと思います。

「表千家」の「表」は京都市上京区に宗家があり、表千家の象徴でもある茶室『不審庵』が通りの表にあることに由来しています。通りの表にある事から「表千家」です。

そして表千家を創設した三男の江岑宗左(こうしんそうさ)が三代目:宗旦の正式な跡取りという事と、また古くからの作法を忠実に守ってきた流派ということもあり、「表千家」は千家の本家筋ということになっています。特徴として使う道具や作法、お点前は裏千家と異なり質素で華やかさはありませんが、よりわびさびの心を感じることができると言われています。言い訳を言うようですが、私は親先生が裏千家の正教授で、私は裏千家の流儀の点前しかしたことがありませんので、正直裏とか表とかあまり気にしていません。他流派の点前は見たいし、呼ばれたらすぐにでも行きたいと思っているくらいです。

では、「裏千家」と「武者小路千家」が何故その名前になったのか?

「裏千家」の宗家は京都市上京区にあり表千家と隣接しており、敷地の裏側にあるため「裏千家」と言います。(裏千家の象徴でもある茶室は『今日庵』(こんにちあん)と呼ばれ、今日庵と言えば裏千家を指します。)因みに裏千家は学校の茶道クラブ等で一番多くある流派なので、三千家の中で門下生は最大規模と言われています。もちろん組織も最大で、派閥で言ったら最大派閥ということになりますね。これは私が尊敬する玄々斎宗匠の大変革、今風に言うなら経営力のお陰だと思っています。

一方「武者小路千家」の宗家は京都市上京区武者小路通りにあり、所在地(通りの名前)が武者小路千家の名前の由来になっています。武者小路の茶室は『官休庵』(かんきゅうあん)と言い、官休庵は武者小路千家っを指します。)

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