無想庵コラムCOLUMN

喫茶去 二月の掛け物

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喫茶去(きっさこ)

余りにも有名で、ご存じの方も多いと思います。一行書の中でも三語と字数が少なく、草書体でも読みやすい禅語ではないかと思います。

ただ、その意味はちょっと理解しにくいですよね?出典は「碧巌録(へきがんろく)」でじょう州和尚と二人の新参の僧との会話から始まっています。和尚が修行僧に尋ねました。「以前ここに来たことはあるのかね?」修行僧は「いいえ、初めてです。」と答えました。「お茶でも飲んでいきなさい(喫茶去)」と和尚は言いました。次にもう一人の修行僧にも聞きました。今度は「一度ある」の答えます。すると和尚は「お茶を飲んで行きなさい」と同じことを言いました。それを聞いて古参の弟子が和尚に質問します。「老師はどうして誰に対しても同じことを言うのですか?」すると老師は答えました。「まあ、お茶でも飲みなさい」

まるで禅問答みたいな会話ですね(笑)だから禅語なのかもしれませんが、誰に対しても同じようにおもてなしをする心を言いたいのかも知れません。

ただ「去」という字は何か意味があるのではなく、喫茶の語句を強める助詞で、現代風に言うと「!」という感じでしょうか。去れという意味ではないです。一部ネットには、もともとはお茶の飲んで去れ!という叱咤のセリフと いう解説をされている方もいらっしゃいますが、禅語なので元々は厳しい教えであるという意味では賛成ですが、「去」という字の使い方は強調する語ということです。先生にも質問したことがありましたが、なかなか理解できる回答は得られていません。禅語は解釈が広すぎるので、なかなか一般の我々には理解が難しいですよね。現代では「お茶をどうぞ~」という感じの柔らかい意味で使われていますし、そういう気持ちを表すものとして、このお軸を使わせていただいてます。

このコラムをアップした二年後、臨済宗大本山の円覚寺というお寺のサイトを拝見し、私の説明より説得力があるように思うので、併記いたします。

しかし、近年の研究によって、それは「且坐喫茶」の意味であって、「喫茶去」は違うと言われるようになってきました。入矢義高先生の『禅語事典』には、

「茶を飲んでこい」または「茶を飲みにゆけ」という意であって、あちらの茶堂(茶寮〉ヘ行って茶を飲んでから出直してこい、という叱責なのである。

「まあ、お茶をお上がり」というのは、「且坐喫茶」(且く坐して茶を喫せよ〉と混同した誤解であるが、しかし日本では古くからこの誤解が伝統的に受け継がれてきた。本来なら「喫茶去」と言われたとたん、ギョッとなって忽々に退散せねばならぬはずである。

誤解がそのまま無反省に正統として踏襲されるというのは、敢えて言えば、日本禅に特有の独善的な体質の一つの現われでもあろうか

これを読んで感じたのは、(厳しい言い方になりますが、)確かに禅語辞典にあるように、研究が進み正しい解釈が示されても、相変わらず平和ボケで生ぬるい生活を送っている多くの日本人の感覚で上記のような意味の歪みが起きているのかもしれません。私も気を付けたいと思います。

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