無想庵コラムCOLUMN

放下着 五月の掛け物

放下着 五月の掛け物

放下着(ほうげじゃく)

簡単な三文字なのに、読みにくい単語ですね。禅語ですから普通に読まないところが更にヤヤコシイです。つい知っている単語「下着」に目が行きますが、もちろん「下着を放て」ではありません!原典では「着」という字ではなく「箸」という字だそうで、常用漢字ではないので、いつの間にか変わったんでしょうか?出典は『五家正宗賛(ごけしょうしゅうさん)』という書物です。

昔、中国のある禅僧が趙州(じょうしゅう)和尚という偉いお坊さんに、「(私は解脱したので)捨て去るものはもう何もありません。これ以上どうすればよいでしょうか?」と尋ねました。すると 趙州(じょうしゅう)和尚 は「放下着」と言ったということです。つまり捨て去るものが何もないという心(思い込み)をも捨て去れと言ったのです。 つまり「いっさいの執着を捨て去りなさい」という意味ですね。 所有している物だけでなく、過去の経歴や成功体験、思い込みや決めつけといった思慮分別をも捨て去る。 そしてもう捨てるものがない、もはや捨てきったという自負までも捨てなさい、ということで大変深いというか私には到底及ばないという感じです。

「放下」とは手放すとかしたに置くということで、「着」は強調の言葉「!」みたいな意味です。「喫茶去」の「去」と同じと思ってください。そういえば「喫茶去」も同じ 趙州(じょうしゅう)和尚 の言葉です。和尚と言ってますが、禅僧です。禅師と言った方が正確でしょうか?

宗派は知りませんが、お坊様がよく托鉢(たくはつ)をされていますよね?最近はあまり見かけませんが。そして私たち一般人はお坊様に対して、お布施します。これを財施(ざいせ)といって自分の財を手放す行為なのですが、施しをすることによって自分の持っているものを手放す、しいては執着心を捨て去るといういわば修行みたいな行為という意味があるのです。

でもだからと言って宗教団体に寄付しましょうとか言っているのではありませんよ。そこら辺は相手見て。

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